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太田渉子(テコンドー)のプロフィール!獲得したメダル数や母が話題に

こんにちは!ほしです☆

2020年1月に、パラテコンドー東京パラリンピックの代表を内定させた太田渉子選手。

 

太田渉子選手は、元からテコンドーの選手だったわけではなく、クロスカントリーとバイアスロンの選手。

しかも、パラリンピック・世界選手権などでメダルを獲得するほどの実力者でした。

 

全く違う競技でメダルを獲得して、しかも東京パラリンピック内定する太田渉子選手が気になりますね。

この記事では、太田渉子選手のプロフィールやメダルを獲得した活躍、母親の存在について調べてみました。

 

太田渉子のプロフィール

 

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まずは太田渉子選手のプロフィールから。

名前:太田 渉子(おおた しょうこ)

生年月日:1989年7月27日

年齢:30歳(2020年4月時点)

出身地:山形県 尾花沢市

身長:164cm

所属:Softbank

 

太田渉子選手は『先天性左手全指欠損』という障害を持って生まれます。

先天性とは「生まれつき」ということで、つまり生まれながらにして左手の指が全て欠損(無い状態)で生まれたということ。

 

しかし、ご両親は太田渉子選手を特別扱いすることなく、幼い頃からピアノや乗馬にも挑戦させてきました。

そして、小学校3年歳の時に地元のスポーツ少年団に入り、スキーを始めます。

ほし
ほし
普通なら「危ない」とかで、特別扱いしてしまいそう。

 

幼い頃から大人しい性格で、人前で目立ったり・リーダーとなって引っ張るタイプではなかった太田渉子選手。

体を動かすことが好きで、障害を持っていても近所の子供たちと活発に遊んでおり、特に不便を感じたことがなかったとか。

 

太田渉子選手が生まれ育った山形県尾花沢市は、豪雪地帯でクロスカントリーが盛んな地域と言えます。

そんな地域で鍛えられた太田渉子選手は、中学入学後の2003年には日本障害者スキー連盟の強化選手に。

 

そして、翌年の2004年にはW杯カナダ大会で、クロスカントリーとバイアスロンに参戦。

ほし
ほし
まだ、15歳とかなのに凄い!!

 

太田渉子が獲得したメダルは?

パラリンピック(バイアスロン)
2006 トリノ 12.5km 立位
パラリンピック(クロスカントリースキー)
2010 バンクーバー 12.5km 立位
世界選手権(バイアスロン)
2009 3.6kmパシュート 立位
2009 12.5km個人 立位
ワールドカップ(バイアスロン)
2007 総合成績
2008-09 総合成績
2012-13 総合成績
ワールドカップ(クロスカントリースキー)
2008 総合成績
2011-12 総合成績

引用:Wikipedia

 

高校時代には、通っていた山形県立北村山高等学校を休学。

フィンランドのソモカ高校に留学しています。

ほし
ほし
どれだけ競技に打ち込んでいたか分かるね!

 

これだけ打ち込んだからこそ16歳で初出場したトリノパラリンピックと、バンクーバーパラリンピックの2大会連続でメダルを獲得されています。

そして、ソチパラリンピックにも出場し、日本代表の旗手も務めていました。

 

この頃は、日立ソリューションズ『チームAURORA(アウローラ)』に所属。

しかし、ソチパラリンピックが開催された2014年、山形県庁でスキー競技からの引退を発表しました。

 

なぜテコンドー?

スキーを辞めた後も、太田渉子選手のもとにはトライアスロンなどのパラスポーツのお誘いがあったそうです。

しかし、全てを断って仕事に専念することに。

 

しかし、働きながらも趣味で体を動かしたいと思った太田渉子選手は、知人の紹介でパラテコンドーを知ります。

最初は「痛いし、怖い」というイメージでしたが、練習用のミットを蹴ってみると爽快感があり、のめり込んでいきます。

ほし
ほし
こういう出会い方もあるんやな。

 

すると、パラテコンドーを始めた3年後の2018年には全日本テコンドー選手権に出場。

2016年・2018年のアジア選手権で銅メダルを獲得し、2019年の世界選手権でも銅メダルを獲得。

 

パラテコンドーが東京パラリンピックの競技種目となり、強化選手にも選ばれたことで太田渉子選手はもう1度パラリンピックに出場する覚悟を決めます。

ほし
ほし
ここは凄い覚悟だと思う!!

 

太田渉子の母親は?

ちょっと話しを戻します。

太田渉子選手のお母さんは、障害を持って生まれた我が子を特別扱いしませんでした。

 

常に「他の人と同じようにできるように、工夫しなさい」と言い続けてきました。

おそらく、お母さんのこの言葉があったからこそ、太田渉子選手は物事を工夫してクリアしていくことで、障害を持っていたとしても不便を感じることがなかったのではないかと思います。

 

もし、我が子だと考えると、つい手伝いたくなりますよね。

だって、手を貸した方が楽ですし、安心してしまうのが親心というもの。

ほし
ほし
お母さんもいろいろ覚悟していたやろうな。

 

しかし、お母さんは太田渉子選手が10歳の時に病気で他界。

今でも、お母さんのTシャツの生地で作った巾着袋は、お母さんの教えを守るためと原動力となっているので肌身離さず持っています。

 

まとめ

パラテコンドーの太田渉子選手についてでした。

お母さんの言葉を守って、今までスキーにもパラテコンドーにも挑戦してきた太田渉子選手。

 

東京オリンピックもパラリンピックも開催延期となってしまいましたが、太田渉子選手には表彰台に上がって欲しいです。

お母さんの話しを聞いて、本当にそう感じる選手でした。