ジョニー・デップ最新作『minamata』のモデルとなるユージン・スミス氏。
日本の四大公害と言われる熊本の『水俣病』をカメラに収めたフォトジャーナリストとして知られています。
実在したユージン・スミスさんについてプロフィールや経歴、結婚や子供についてちょっと調べてみました。
ユージン・スミスのプロフィール
まずはユージン・スミス氏のプロフィールから。
名前:ウィリアム・ユージン・スミス
生年月日:1918年12月30日
出身:カンザス州 ウィチタ
享年:59歳
職業:写真家
ユージン・スミスさんは、実は100年前に生まれた人で、2017〜2018年にかけて東京写真美術館で『生誕100周年ユージン・スミス写真展』が開催されています。
亡くなっても写真展が開催されるというだけで、日本にどれだけ影響を与えた人か分かります。
雑誌『ライフ』『カントリー・ドクター』『スペインの村』など、人々の生活に密着したフォトエッセイを発表。
また、世界的写真家集団『マグナム・フォト』に正会員として3年間所属しており、フォトジャーナリスズムの歴史に大きな功績を残したとして知られています。
その仕事ぶりは厳しく、妥協を許さないことで有名です。
助手が暗室作業で、渡された1枚のネガから1週間かけて100枚以上のプリントを焼き、ようやくたった1枚だけOKを出したという話しがあります。
ユージン・スミスの経歴
ユージン・スミス氏が子供の頃、大恐慌により父親が経営する小麦商が破産し、この影響で命や医療について強い関心を抱くことになります。
第二次世界大戦では、サイパン・沖縄・硫黄島などに戦争写真家として派遣され、日本軍の砲弾により重傷を負ってしまいます。
このケガで2年間療養生活を送ることになり、一生残る後遺症を負うことになってしまいました。
戦争後は、日常の中の人の生活や表情などに方向転換し、フォトエッセイを出版。
1961年、日本経済復興の象徴の1つともいえる大企業日立を取材。その経済復興の裏側で生じた水俣病の取材を開始。
1972年には水俣病を引き起こした企業『チッソ』の子会社に訪問した際、多数派労組に囲まれて暴行を受けてしまいます。
ユージン・スミス氏はカメラを壊され、脊椎骨折・片目失明の重傷を負うことに。
この怪我により、「水俣病患者の怒り・苦しみ・悔しさが自分のことのように感じれるようになった」と話しています。
1972年に『minamata』を発表!!
この作品は人々に衝撃を与え、水俣病のことが世界に知られるきっかけとなります。
1977年には脳出血で倒れますが、翌年に奇跡的に回復します。
しかし、回復した同年にアリゾナ州で買い物中に発作を起こして、そのまま帰らぬ人となります。
ユージン・スミスの家族は?
ユージン・スミス氏は1970年にアイリーン・美緒子・スミスさんという女性と出会っています。
出会いから1年後、1971年に2人で来日して8月に婚姻届を提出し、東京で披露宴を行なっています。
また、実際に家を借りて水俣で3年間取材を行なっています。
ユージン・スミス氏を支えた良妻として有名でしたが、2005年にアイリーン・美緒子・スミスさんは傷害と恐喝の罪で逮捕されています。
そのニュースがコチラ
↳https://blog.goo.ne.jp/fwhd26/e/fb5189f384dbf83a139027d66f3c2c8f
環境保護団体の代表として活動していたアイリーン・美緒子・スミスさんですが、長女が被害を受けたとされる男性を呼び出し、金を騙し取ろうとして5人で顔などを殴ってケガを負わせています。
とにかくですが、ユージン・スミス氏には、アイリーン・美緒子・スミスさんと言う奥さんと娘がいることだけは分かりました(笑)
まとめ
ユージン・スミス氏のプロフィールや経歴、家族についてでした。
私は熊本の出身なので、水俣病については小学生の頃から何度も授業の中で学んできました。
この水俣病のことを知ってもらう大きなきっかけを作ってくださったのがユージン・スミス氏だったんですね。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。