『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』という映画が公開され、話題となっていますね。
タイトルだけ見るとコメディ映画のようですが、筋ジストロフィーという難病を抱えた鹿野靖明さんと、24時間体制で支え続けたボランティアたちの交流が描かれた映画です。
原作は渡辺史一が『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』いうタイトルでノンフィクションの物語です。
主人公である鹿野靖明さんとはどのような方だったのか?
現在はどうしているのか?
家族はいたのか?
実はだけにこのようなことが気になります。
鹿野靖明ってどんな人?
まずは鹿野靖明さんの生い立ちから
鹿野 靖明(しかの やすあき)
1959年札幌市生まれ
小学校6年祭の時に『デュシャンヌ型筋ジストロフィーと診断
1972年国立療養所八雲病院に入院し、併設された八雲養護学校に通う
北海道立真駒内養護学校高等部卒業
身体障害者職業訓練校で、1年間簿記・珠算・タイプを学ぶ。
こう言っては失礼かもしれませんが、動かなくなっていく体でもきちんと高校まで卒業し、資格まで取られています。
デュシャンヌ型筋ジストロフィーとは?
デュシャンヌ型筋ジストロフィー(通称:筋ジス)は、徐々に全身の筋肉が衰えていき、歩く・立つ・座るなどの日常的な動作もできなくなり、最終的には呼吸する筋肉も衰えて死に至る病気です。
そのため、30代から人工呼吸器をつけるのですが、気管と気管の間に痰が詰まるので、窒息の危険性があり、吸引器で痰を吸引するために24時間体制のボランティアが必要となります。
筋ジストロフィーなので痰を吐くための筋肉も衰えているため、自分で吐き出すことはできません。
しかも、筋ジストロフィーの治療法は現在でも確立されていません。
鹿野靖明の性格
鹿野靖明さんは「両親に自分の介護をして、苦労をかけたくない」という思いと、「地域で普通に暮らしたい」という思いから。
鹿野靖明さんご本人
タイトルにあるように『こんな夜更けにバナナかよ』は、鹿野靖明さんをお世話するためにボランティアに参加していた学生に鹿野靖明さんが「夜中にバナナが食べたい」と要求します。
この鹿野靖明さんの供給に対し「いい加減にしろ」との思いから、SNS上でつぶやいた言葉が由来となっています。
通常、身体に何からしら障害がありお世話をしてもらう立場なら、どこか「悪いな」「迷惑じゃないかな」と気が引けてしまいます。
しかし、鹿野靖明さんは「あれしろ」「これしろ」と自分が思ったことややりたい事は全て要求したそうです。
「いい加減にしろ」との思い出つぶやいた学生も、鹿野靖明さんの容赦ない要求に圧倒され逞しささえ感じて怒りも消え失せるというエピソードがあります。
ボランティアの心境
自分がお世話している介護者に「あれしろ」「これしろ」と言われたら、怒ってボランティアを辞めてしまうのではないか?と考えますよね。
しかし、ボランティアに参加した人たちは、ギャンブルざんまいの学生や夫婦関係が冷え切ってしまった主婦など、「自分は何のために生きているのだろう?」と生きる意味や自分存在価値が分からなくなった人もいるそうです。
そんな人たちが鹿野靖明さんと出会い、ボランティアをしていく中で、「障害者である鹿野靖明さんを支えつつ、自分も支えられている」と、必要とされたり支えられていることに気付いていきます。
作者の渡辺史一さんも「どちらが障害者(支えられる側)で、どちらが健常者(支える側)か分からなくなった」と話されています。
鹿野靖明の家族は?
鹿野靖明さんは人工呼吸器を装着する前の1987年6月に結婚されています。
結婚していた女性の母親から「娘を騙さないでほしい」と結婚を反対されたそうです。結婚した女性が誰なのかまでは分かりませでした。
しかし、1992年に離婚しており、お子さんはいらっしゃらなかったようです。
鹿野靖明の現在
実は鹿野靖明さんは2002年8月12日死去されています。
43歳という若さです。
今では筋ジストロフィーを発症しても、30〜40年経過しても存命する方もいらっしゃいます。それも稀なケースであり、当時は発症すれば20年ほどしか生きられなかったようです。
しかし、その人の生きたいという気持ちや充実した生活を送っている人は、しばしば臨床的な病気の寿命を大幅に超えて生きる方もいます。
鹿野靖明さんは体が動かなかったとしても、ボランティアの人に支えられ楽しく充実した生活を送れており、43歳まで生きたのではないかと思います。
まとめ
鹿野靖明さんについてと、家族・現在についてでした。
「自分が生きたいように生きる」鹿野靖明さんの生き方には、ボランティアの方々も救われていたようです。
もし、「何のために生きてるんだろう?」と考えることがあれば、アナタは映画を観たり・本を読んでみる価値があるかと思います。